25 November 2008

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス

 「積ん読」状態になっている本のなかから。
 
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)
  • 発売元: 光文社
  • 価格: ¥ 777
  • 発売日: 2006/02/16
  • おすすめ度 4.0


 著者の好井 裕明(よしい ひろあき)さんは、筑波大学大学院人文社会科学研究科の教授をされています。
 
 この本では、いわゆる質的研究の手法について書かれているのではなく、好井さんやほかの社会学者の方々が行ってきた研究をベースに、社会学的な質的研究を行う上での「センス」について書かれています。社会学者が、どんな視点で人々の日々の生活をみて、その中でどんな振り返りをし、どんな問題を社会に投げかけているのか、そういったことが書かれています。
 語られている研究テーマは、部落の人々、在日韓国人、ゲイなどのセクシュアルマイノリティ、地域の民俗など、多岐に及んでいます。

 目次
第1章 数字はどこまで語れるか
第2章 はいりこむ
第3章 あるものになる
第4章 聞きとる
第5章 語りだす
第6章 「あたりまえ」を疑う
第7章 「普通であること」に居直らない

 読みながら、常に頭の中にめぐってきたのは、
 「この、社会学の視点は、臨床医の視点そのものなんじゃないのか?」
 ということ。
 とくに、長いこと一人の患者さんや家族、地域と付き合っていく家庭医の(あるいは、持つべき)視点に非常にそっくりだと。

 診察室へ来る患者さんは、「患者さん」とひとくくりにすることは、なかなか難しい。
 「糖尿病の患者さん」ということで、治療方針はガイドラインとして提供されているものがあり、それにのっとって治療することが勧められている。
 でも、その患者さんたちの中に共通する何らかのカテゴリーはあるかもしれないけれど、医学的な薬への反応なんかの違いだけではなくて、その人の生きている環境や病気のとらえ方、ものの見方、医療との距離の取り方なんかは、患者さんそれぞれ、なんだよね。
 そんな、非常にユニークな人々のそれぞれのニーズに合ったように、手持ちの「医学」という道具箱から、それを少しモディファイしながら、長い時間を過ごしながら、応援していくっていうのが、プライマリ・ケアなのかなと。
 
 以前、ゲイやレズビアンといったセクシュアル・マイノリティの人たちへの医療提供について、医者たちと話になったことがありました。
 診療を行う上で、月経・性交渉についてやセクシュアル・パートナーについて聞きとる必要が多くありますが、結構な割合で「セクシュアリティについては、聞かないなぁ」とか、「性にまつわることは、ちょっとね」ということで、話題にのぼらない(のぼらせない?)という話でした。
 なんでかなー?ご飯を食べるのと同じくらい、日常的なことなんじゃないのか?
 医療のProfessionalとして、聴取しないのは問題なんじゃないのか?
 って思っていました。

 この本を読んで、ははぁと思ったのが、そうした話題、あるいは、そうしたことに何らかの問題を抱えている人に対して、「聞かないなぁ」という医療者は、どのように対応したらいいのか分からなかったり、対処する経験がなかったから、「話題が出ることに怯えている」のかもしれないなぁ、と。
 
 目の前の患者さんに、他に何かありますか?と聞いたときに、「私、ゲイ/レズビアンなんですけど、何か気をつけたらいいことってあります?」と問われて、固まってしまう、ということの不安があるのかなと。
 
 知識を積み上げたら、その不安が解消するというわけではなくて、自分の「日常」に入っていないカテゴリーが目の前に現れたときに、どうしていいか分からなくなるかもしれない、という不安なのかなと。

 好井さんは、社会学を勧めていく上で、非常に大切な視点も指摘されています。
 社会学的調査を進めていくと、
調べれば調べるほどに、”生かされた”カテゴリーをめぐる人々の経験がもつ”闇”が広がっていき、他方、「道具」としてのカテゴリーを安易に用いていた自分のこれまでの経験が思い知らされ (P240)

 るということ。
 そして、調査する人は、調査をするということそのものが、
”闇”を広げてしまう営みだということぐらい、きちんと認識したうえで調査すべきであり、個別のできごとや問題の中で、調査するものの対応やセンスが問われていく (P240)

 と指摘しています。
 また、姿勢として、
調査をすることの権力性や自分自身の居場所を、調査する過程で常に反省的にとらえ直しているだろうか、調査結果を明らかにすることが、対象者に対して持つ意味をどれくらい想像できるているのだろうか (p241)

 と自分に問いかけ、
決して硬直してはならない。そうではなく、できるだけ柔軟に、調査することを見直し、調査する私を見直す。もし「普通であること」に私が少しでも居直っているとすれば、それを反省し、「普通であること」を疑い、どこが問題であり、どう変革すれば、相手の”生きられた”世界と繋がることができるのかを模索していく(P241)

 ことを勧めています。

 これは、社会学者のセンスとして書かれていますが、「調査をすること」という言葉を問診などの「話を聞く」とか「治療」ということに置き換えれば、おそらく、「よい臨床家」となる上でも、非常に大切な視点なのかなと、思いました。

14 November 2008

Baby Pと貧困

 ニュースで話題になっていることを一つ。

 ロンドンの北部で2007年8月に17か月の男の子が虐待のため死亡した、という事件。
 死亡した時には、背骨と肋骨が折れ、全身にあざがあり、血だらけだったとのこと。
 しかも、法的理由により、この子には名前が付けられておらず、Baby Pとして話題に取り上げられています。つい先日、政府の方針に対しても国会の答弁で議題になり、小児医療・ケアに対する軽視が生み出したものだと、批判されているようです。

 現在、母親とそのパートナー、および同居していた男性(15歳の家出少女と共に母親のもとで暮らしていた)が、虐待あるいはその幇助ということで逮捕されています。

 このケース、Social Workerや小児科医が介入していたにもかかわらず、虐待死が防げなかったということで、地域の行政に対する批判が高まっています。また、死亡する直前に検診を担当した小児科医が、GMC(General Medical Council:医師登録などを扱っている機関)でその診察が適正だったかどうか、調査を受けています。
 虐待が始ってから、少なくとも60回にわたってSocial workerが家を訪れ、8回にわたり母親がGPやBaby Pの治療のために病院を訪れていましたが、最終的には、母親のもとに子供は返されていました。

 母親は、Baby Pが生まれてから2度も虐待の疑いで警察に拘留されていますが、最終的にはBaby P は母親のもとにかえされ、最終的に虐待死を遂げることになってしまいました。
 経過は、このWebを参照。
 http://www.guardian.co.uk/society/2008/nov/11/baby-p-death

 母親となった女性は、薬物およびアルコール中毒の母親に育てられたあと、Baby Pの父親と出会い、Baby Pを出産しました。Baby Pが生まれてから数ヶ月後に、Baby P の父親は家を出て、その数ヶ月後には母親がPubで出会った男性とともに暮らすようになっていたようです。また、15歳の家出少女とともに別の男性が家に暮らすようになり、この男性と母親のパートナーの間でいさかいが起こるようになり、その状況下で虐待が進行していったのではないかとされています。

 問題点として明らかになっているのが、Baby P の状態が悪くなるたびに母親がGPや病院に何度も子供を連れて行っていた際に、あざを確認しても、「年上の子供に突き飛ばされた、犬に引きずられた、階段から落ちた」などの母親の言い分を聞いてしまったこと、また、同居の男性がいるということを把握できなかったこと(この男性と同居するようになり、虐待が始った疑いがもたれています。)また、病院を訪れたり、Social Workerが訪問するときに、母親がチョコレートなどで傷を隠していたことも分かっています。
 さらに、システム上の問題として、Child protection registerというリスト(虐待の可能性があり保護が必要とされる子供のリスト)から、「Social workerとコンタクトを取る」という条件で削除されたこと、最終的にBaby Pを母親のもとから引き離す決定が下されたのが遅くなったこと、関係した医療者及び行政機関の間での情報のやり取りがうまくいっていなかったことが挙げられています。

 これらは、日本でも虐待死があった時に聞かれることです。

 今回、ここまで地域のChild protection serviceへの批判が高まっているのは、2000年に同じ地区で少女が虐待死を遂げていたことが上げられます。このときに、UK全土でのChild Protection serviceの見直しがあり、システムの改善が図られていましたが、残念ながら今回のBaby Pの虐待死を防ぐことができなかったことが、Child Protection Serviceのシステム、および教育体制への批判が増大した理由の一つです。
 Social workerたちへの批判が高まる中、彼らの仕事への無理解や援助の乏しさも挙げられています。

 多くの記事が、地域の行政サービスとしてどうやって子供を守るかというところに集中していますが、どういった理由が虐待する親を生み出してしまうのか、という議論がないのが気になります。虐待する人がいるのは仕方がないから、そこから子供をどうやって守るか、という議論に見えて仕方ありません。

 驚くべきことに、先進国の一つであるはずのUKでは、約3人に1人の子供が貧困の中で生活しているというreportがあります。
 End Child Poverty
 http://www.endchildpoverty.org.uk/
 Joseph Rowntree Foundation
 http://www.jrf.org.uk/child-poverty/default.asp

 貧困と低いEducation levelはリンクしていることが明らかとなっており、低いEducation levelは就職の上で不利となり、貧困の輪から抜け出すことができません。前首相のブレアさんは、2010年までに子供の貧困をなくすという政策を打ち出していますが、あと2年で390万人いるとされる貧困の中に生きる子供たちへの対策を打ち出すのは、この不景気が直撃したUKでは、かなり難しいだろうなぁ。。。

 先進国の子供たちの状況を知る上で、UNICEFの以下のレポートが参考になります。
 An overview of child well-being in rich countries (UNICEF 2007)
 A comprehensive assessment of the lives and well-being of children and adolescents in the economically advanced nations
 http://www.unicef-irc.org/publications/pdf/rc7_eng.pdf
 
 日本に貧困はない、と思っているのは、恵まれた環境にいる人に事実が見えなくなっているだけのような気がします。レポートによれば、日本の0-15歳の約15%は、平均収入以下の家庭で暮らしています。(がっかりなのは、日本のデータが多くの場合欠落していること。つまり、現状すらわかっていないということ。現状調査=測定ができなければ、改善は難しい。)

 医師、医療者は政策には直接関係ないという声もよく聞きますが、患者さんは(自分たちも)国の政策の中で生活をし、問題を抱えて目の前にやってくるわけで、情勢や政策が見えていなければ、本当のサポート、あるいは状況改善のための手立てを取ることは難しいのではないかと思います。